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文責: 重城良国

不安・苦痛・恐怖について

悪の問題があり、恐怖の問題がある。怖くて背筋が凍るようなこともある。そういうことは、一体どういうことなのかと思う。そういったことに対して毅然としているのは難しい。

本当のことを知るまでは恐怖は尽きない。おそらく本当のことを知ったときに恐怖は終わる。というよりも、恐怖というものが問題ではなくなるのだろう。絵のなかの虎のように無害なものになる。

本当のことというのは何か。それは、多分、こういうことだ。僕は彼であり彼は僕である。その彼は憎むべき悪人であり、あるいは途方もない苦痛に耐えている人である。加害者は僕であり、被害者も僕である。

コタムリトのなかにこのような話があった。

あるお坊さんがあるときひどい目にあわされた。意識を失うまで棒でなぐられたのだ。仲間のお坊さんが助け出し、介抱した。意識を取りもどした彼に対して、介抱したお坊さんが彼が目を覚ましたことを確認するために、自分が誰だかわかるか、という意味で以下のように尋ねた。「誰が介抱しているかわかるか?」と。すると彼は答えた。「私を棒でなぐってくださった方が私を介抱してくださっている」と。

すべてはひとつであるということだ。誰かをなぐる人も誰かになぐられる人も、苦しみも喜びもすべてを共有しているということ。そのなかで人々は皆、ただ、自分の役割を果たしていくことしかできない。徳も罪も喜びも苦しみも、すべて共有しているのだ。そして、それらすべてを引き起こす神というものと、その舞台である世界も、目撃者である僕も、ひとつのものであるということだ。

そしてそれは、たとえば海中で命が生まれ、食われ、成長し、腐敗する、その美しくめくるめく世界のように全体として美しいのだろう。それが生命というものなのだ。

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