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文責: 重城良国

これは何か

「これは何か」という問いがある。究極の問いとして「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いがある。逆に言えば、疑いようのない命題として「何かがある」がある。

「我思うゆえに我あり」は疑えない命題ではない。「我思うゆえに我あり」と言うためには「あなた思う」や「彼思う」が必要である。つまり、「誰か別の人」の「思う」という行為を仮定しなければ、「我」と「思う」を分離することはできない。しかし、「あなた思う」や「彼思う」は自明ではない。よって「我思う」は「我」と「思う」に分離することはできない。「我思うゆえに我思う」ならば正しいが、この場合「我思う」と比較できる何者もないので、「我思う」というラベルをつけることは恣意的なものとなり、単に「何かある」と言うのと同じことになる。

疑いようのない事実とは「何かある」だけである。哲学者達はそれを受け入れることを躊躇する。「哲学的思考を続ける」という目的のもと、さまざまな概念をアプリオリなものとして、導入しようとする。「何かある」以外に何もない。それを受け入れることが不毛なことであるような気がするのだろう。

しかし「何かある」以外に何もないということを受け入れることは、実は不毛なことではない。逆に「何かある」以外のすべてが不毛なことであり、無駄である。「何かある」のみにとどまるということ自体が、言葉で表現することのできない豊かさである。その証拠は少数の人によって示されている。彼らや彼らの言うことについて考察していこうかと思う。

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