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文責: 重城良国

実存主義とは

本質存在と事実存在というものがある。前者が「...である」であり後者が「...がある」であると言えるだろう。英語のbe動詞について考えてみよう。たとえばI am Taro.であれば「私は太郎である」となる。それに対してI am.と言ったならば「私は存在する」という意味になる。

つまり「本質存在」というものは「何であるか」という、いわば「形」であるのに対し、「事実存在」というものは「ある」という、「中身」であるということだ。

西洋哲学において、ある時期までは「本質存在」のほうが重視されていた。それをプラトンの「イデア」という考えかたに見ることができる。現実のバラの花を見てみよう。よく見ると、たとえば花びらが欠けていたり、対称的でない箇所があったり、どこかに「心のなかで描かれたバラの花」とずれるところがあるはずだ。「心に持っている像」と現実に存在するモノとを人間は比較することができる。そのような「像」をプラトンはイデアと呼び、現実に存在するモノはそのイデアの不完全なコピーと考えた。

本質存在のほうが重要視されてきた西洋哲学史のなかで、むしろ事実存在のほうが物事の核心であるとする一派が現われた。彼らを「実存主義者」と呼ぶ。そこにバラの花があったとする。それは「理想的なバラの花」のコピーではない。まずはそれは「何か」として現われる。まずは「何かがある」ということだ。ただの「存在」である。そして「それは何か」という問いが起こり、答えとして「それはバラの花である」となる。あくまで、核心として、それは「何か」である。それが何であるかということは偶然的なものにすぎない。

「ある」というところから出発して、それが「何であるか」ということよりも「どのようにあるか」ということを問題とすること。「何であるか」よりも「どのような現われ方をするか」に着目する。そのような立場を採ったとされる哲学者達をまとめて「実存主義者」と呼ぶ。彼らのなかには「実存主義」という言葉以前に活動していた者や、「自分は実存主義者ではない」と言っている者もいる。しかし「実存主義者」とされる哲学者に共通する特徴として、より「生きる」ということに密着した思索を行うという傾向がある。

ここでは、そのような「生きる」ということのなかで生(なま)の感覚を重視した思索を行った哲学者達自身や彼らの考えたことについて、紹介し考察していきたい。

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