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文責: 重城良国

残酷さという問題

残酷さの本質

僕が気にかける問題のなかでとくに重要だと思うものが「残酷さ」という問題である。人間の残酷さも、自然の残酷さも、どちらも同じくらい問題だ。

僕は、図太い側面は多々あるにしても基本的には、神経が細いところがある。現実に存在する残酷さには目をつむっている。今のところは、そうやって生きている。

基本的に残酷さというものが生じる原因は「体」というものにある。ここで「体」というものの持つ側面のうち物理的な側面を「肉体」と呼び、精神的な側面を「身体」と呼ぶことにしよう。肉体と言ったときには生命としての側面を指し、身体と言ったときには社会的、美的な側面を指す。

そうすると体に対する残酷さというものは肉体に対するものと、身体に対するものに分けられる。苦痛を与えるのは肉体に対する残酷さであるし、相手の姿を変えるのは身体に対する残酷さだ。

身体に対する残酷さというものは、本質的に「侮蔑」という側面を持つ。ナルシシズムの破壊という構造であり、それが強烈な残酷さとなる。たとえば、四肢を切り落とすというのも、顔を酸で焼くということも、ナルシシズムの破壊という意味がある。不便だとか社会生活の困難といったこともつきまとうが、それらの行為の本質的な残酷さは人間の身体の「完全性」の破壊である。

身体というものは、つまり「イメージ」である。イメージであるがゆえに、そこには限りない「残酷さ」を作り上げることができる。概念というものはインフレーションを起こすのだ。たとえば、人間の感覚機能の限界からして、肉体的な苦痛には限度がある。人間はイメージのなかでこそ、最大の苦痛を感じ得るのだ。

人間の苦痛というものがインフレを起こすのは、主にイメージのなかだ。あるいは「記憶」と「予期」のなかと言ってもいい。たとえば0.1秒間だけの激しい苦痛というものは考えにくい。ここで言うのは主観的な時間としての0.1秒ということだ。

最大の苦痛というものがイメージのなかにあるということは、逆に、自身の持つイメージを制御することができれば、苦痛というものの大部分を「なかったことに」できるということだ。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言うのはおそらく正しいのだろう。その域にまで達するのはなかなかに難しいものではあるだろうけど。

僕は何をするべきか

僕は臆病なほうだ。「痛がり」と言っても良い。そして、基本的に「よく眠りたい」ほうだ。神経をとがらせながら生活したくはない。「悪いやつほどよく眠る」という言葉もあるが、あまり悪いことをする気もない。敵を作りたくはない。

たとえば、日本には隠れキリシタンという人々がいた。僕は彼らを尊敬するけれど「僕には無理」だ。向いていない。彼らは勇敢に愛を説いた。僕は小心に愛を説くことにする。

「悪人」と戦う人々を尊敬しながらも、僕はこそこそと「悪人」の心を思う。僕には面と向かって戦うことはできない。ただ、できることは「悪人」の心の「悪」について考えることだ。

僕は戦わない。でも守らなければならない。「悪人」と戦うのではなく彼らに苦しめられている人々を守らなければならない。そのために、僕は何をすれば良いのだろうか。雄々しく打って出るタイプではない。ただただ、考えることだ。

たとえば、指紋というものを犯罪捜査に利用することを思いつき、それを実用化するために努力した人がいる。その努力は現場で戦う人々以上に無垢な人々を犯罪から助けただろう。僕は、そういうことを、するべきなのだろう。タイプ的に言えば、僕はそういう人間だ。

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